先日、お盆休みで京都の方に帰省していた友人たちと軽くお酒を酌み交わしていた時のことです。
会の後半には「怖い話」をしていました。
夏ですからね。
1人怖がりな友人がいるので、ひょえーってなっていました。
怖い話も終わり、そのひょえーな友人と歩いて帰宅していた時のお話です。
怖い話が何で怖いのかなという話をしていました。
幽霊とかお化けってはっきり見えないし、もし見えても行動が予想不能だから怖いのではないだろうかという仮説にしておきました。
さらに、存在自体も本当にあるのか無いのか証明できませんから。
僕ら人間は何かと証明したり、はっきりさせることが好きです。
より便利になりたいとか、知的好奇心とかはっきりさせる理由は様々だと思います。
でも、いずれの場合も頭のに片隅に「はっきりさせて安心したいから」ってのがある気がします。
はっきりすると予測もついて、原因がわかるので対処ができます。
「今からあなたの頭を叩きます」
と言われたら、頭を守れば安全だとわかる。
「今からあなたを叩きます」
どこを叩かれるかわからない。ちょっと不安が増す。
「今からあなたに、何か危害を加えます」
何されるか分かんない。さらに不安が増す。
「いつかあなたに…ふっふっふっ」と言ってお化けは消えました。
いや、怖すぎ。
何されるかわからないし、お化けだから姿形もはっきりしないし。
こんな感じで、曖昧になっていく、ぼんやりしていく、予測が難しくなるほどに不安になり怖くなります。
どうしてなんでしょうね。
野生の本能?笑
科学が発展しすぎたからこその弊害?笑
僕はそっちの専門家じゃないからちょっとわかりません。
でもこれってお化けとか、危害が加わること以外にも言えることだと思います。
例えば初めて大勢の前でプレゼンをする時、出たことない規模の大会に出る時。
本番の状況がはっきりイメージできない、知らないので不安を感じる人がいます。
これはいくら人から聞いても、見ても自分が体験するまで「わからない」です。
ところが、2回3回と繰り返していると「ああ、こういうものか」「こんなものか」と全容がはっきりしてくるので不安も和らいでいきます。
具体的にどうすれば怖さや不安、焦りがなくなるか。
良く言われるのは、、、、
・経験して慣れる
・自信が付くまで練習する
・原因を徹底的に考え、予測して対処を練る
・しらみつぶしに考えられる原因を解消していく
etc….
色々あるのでしょうが、どんな対策を練ろうが練習しようが考えようが、物事は予想外のことが起きる可能性があって当然です。
特に、何事も「最初の1回目」があって当然です。
どんなに対策しても未知への挑戦に対する不安や恐怖、緊張などを完全に消すことはできません。
むしろ人間には何かしら必要だからその感情があると思います。
お化けとの遭遇だって、予想がつかない1回目が一番怖いはずです。
怪談話も初めて聞く時が一番怖く、オチの分かっている2回目以降はたいして怖くありません。
未知の舞台への挑戦はとりあえずやるしかないし、お化けとは対峙してみるしかないのではないでしょうか。
人間の体には、未だ解明されていないことはたくさんあります。
自然現象にしても、解明されていないこともあります。
「得体の知れないもの」「不思議な現象」が存在したって何らおかしくありません。
「得体の知れないもの」「不思議な現象」にも理由は有るのでしょうけど、まだ解明できていないだけかもしれません。
そして、解明できていないことに対して畏怖や崇拝を抱くのが僕ら人間です。
「阿呆」なのか「かしこ(関西で言う頭のいい人)」なのかわらないですね。
何年かして「得体の知れないもの」の正体が「実は○○現象だった」と偉い大学教授が発表すれば、途端に恐怖は和らぎます。
特に日本人は権威に弱いのでその傾向が強いと思います。
「得体の知れないもの」「不思議な現象」と毎日遭遇し、なんとなく扱いや生態が分かってきても、恐怖は和らいでいきます。
「こうしておけば大丈夫だ」「こいつは危害を加えないな」と分かるからです。
つまり、分からないことがあって当然であり、体験したり解明するまでは恐怖や不安を感じるのも当然であると受け入れてしまえば良いのではないかと思います。
どうせ怖いし、恐怖や不安を押さえつけることはできないのだから、あらかじめそういうもんだと受け入れて、それありきで眼前の課題やお化けに対峙していくのが自然ではないかと。
こんなことを恐がりの友人と話しながら帰路に着いたわけです。
ちなみに、ひょえーな友人は僕より家が遠く、夜も遅かったので、僕と別れてから1人ビクビクしながら帰ったそうです。
でもあまりビクビクしていると、怨霊渦巻く(?笑)京都では生きていけません。
そういう意味では、長年京都に住んでいる彼も心の底では「受け入れている」のか「図太い」のか (笑)